ウラシマ感

この夏、盛岡の実家に帰省した。年に二度以上は帰っているからそんなにウラシマ感はないはずだけど、それは自分ち周辺(郊外)だけに限定されていたもので、中心街の変化は今回初めて意識したと思う。

盛岡の中心街は盛岡駅を東端として中央通り、大通りといった名称の通りを中心に展開され、かつての城下町だった菜園、肴町といった町を西端としている。巨大商業施設は古くからある地元密着デパートのほかいくつかあるけど、基本は各々の通り別に専門店街が機能していたはずだ。

そこから15年経った。さあ空洞化だ。シャッター商店街だ。専門店街は見る影もなく、街に人が歩いていない。時計、鞄、靴などの老舗は廃墟同然かダイソーになっている。ちょっと前ならプリクラショップだったかもしれない。文化牽引の原動力たる大型書店も4つのうち2つが姿を消した。図書館も中心街から新興(させたがっている)駅そばに移動した。そして消費者はクルマでアクセスできる郊外のショッピングモールで、誰もが均質的な消費を行っている。
中心街が、中心というだけで(実体と乖離して)変に付加価値がついて、地代が高くやってられない、という声もあるだろう。モータリゼーションが進んで、アクセスの容易性、駐車場の充実などで郊外モールの方が重宝されることも想像がつく。中心街の空洞化は全国的な問題なようだけど、いろいろな要因が絡んでいるので、どこかで成功した同じやり方ではきっと盛岡は再生できない。(老人がお金持ちでもない、住宅地と商店街が離れいている等)

都市から地方に還元される、という都市が上位であることを前提にした考え方、地方は都市から(何かを)還元してもらえる、という最初から卑下したような考え方、これが蔓延してきた結果ではないのか。地方が独自色を出して、地方の貨幣価値でやっていけるような国ではなくなってきているということか。

なんかとにかく悔しいんだ。盛岡はいい街ですよ? でもパチンコ産業と自動車産業、あと土建くらいしか活気のある産業がないように見えてきました。どれもこれも郊外型消費のための産業だな…

でも、自分には15年のミッシングリンクがあるが故に、過去の姿を思い起こしすぎなのかもしれない。地元の消費者視点だと、空洞化もむべなるかな、という納得感があるものかもしれない。安易に空洞化=悪とするのは危険だが、雨後の竹の子ショップ=ケータイ屋と100均だらけの街って、地方独自色の消えた最終的な姿に近いと感じるのだ。
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