合理的なことと効果的なことは異なる
ここんところ読んでる本はいろいろ示唆に富むのだけど、ガツンと来たのが確かこんな内容だった。
(ここでの合理的、は、理論的に合ってるという意味ね)
ある個人なり組織なりが抱えている問題を解決する、もしくは解決に導く、そして対価を得る、というあからさまな営利活動でなくても、我々は日々それなりに他者の問題に向き合って、問題を解決していってる(またはこじらせてる)と言えましょう。ここで、解決には選択肢があり、さて、どっちがいいかなという場合を想定します。
例えば、「夏服がふんげー欲しいんだけど、これとこれどっちがいいかなー」という誰かの問いに直面したとします。
A. 時流や素材、手持ちの他の衣料、価格対性能比など、定量的に求めてから判断する
B. 本当のところ欲しそうな方を奨める
C. うっわー迷うーなどと一緒に悩む
D. 自分には判断基準がないと率直に申し出る
なんてな選択肢があるとしましょう。
ここで、合理的な選択肢を選ぶと、きっとAかDです。Aのための労力、というのも考慮すると、おのずとDになるかもしれない。理科系教育を受けた者にとっては、合理的な解が導けなければ手段と情報が不足、もしくは問題が悪い、とするものです。
でもまあ、どうやら一般的には、BかCが答えとして正しい、というような解説もあり、ふーんと思ったりできるわけだけど、これは単に叙情的な反応だから、という訳ではないよなあなどと考えていた、要するに理解できてない矢先に、さっきの書籍で、
合理的なことと効果的なことは異なる
という一文をみっけて、なるほど、効果的なことが望まれているなら、そりゃBかCだろう、というふうに導けます。
合理的な選択肢を選んでしまう行為は、要するに問いの内容を「最適な服が欲しい」と解釈したこと自体が甘いんだけど、洞察を進めていれば、BかCが効果が高い、ということにも納得がいくはず。そして人間から発生する問題はだいたいが効果を求めている。
理系非モテ説の根っこはこういうところかもね。