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02/25/2004: "サイレンと魔女"
沈黙の多数派という便利な概念があります。物言わぬ多数派。これが科学的に証明できないから幻想だどうだという議論もあれば、「俺がサイレントマジョリティの代表だ! レペゼン!」と義憤に駆られて声高に叫ぶことを信条とする派もいたり、「所詮サイレントマジョリティの遠吠えだよ…」とグラスを傾けて一線を引く派もいたり、「サイレントマジョリティのことも考えて!」と声なき市民からの投稿に使われたり。
で、どういう目的で使われるかと言えば、大抵は意見を通す際に説得力を増すため道具として、です。そして「こんなにも民衆の感情が高まってんダ!」と政治的意志決定の場で用いられることが多いように思う。とはいえ、政治の場だけでなく、代表委任で物事が決定される場、と一般的に言えそうだ。(さらには子供の議論で言う「だってみんな言ってるモン」も同じ理屈だが)
としたところで、昨今のインタネ上の議論にて、「サイレントマジョリティが…」とことさらに声なき声を強調する傾向はいつから始まったのだろうと疑問が生じてきた(あるんですよ、そういう傾向が。いつからインタネ界は代表委任でモノゴトを決定する場になったのだろう)。
まず、俺自身も、疑念は感じつつも議論に参加しない局面というのが多々ありまして、それはなんでJAROと考えてみると、
- そんなヒマないから無言
- 議論が小難しいから参加できない
- 論じてる奴らと同じ文法で対話するのが辛い
- フレーミングは見てるからこそ面白い
- 実はどうでもいい
と、最後の条件が最も強いことがわかった。なまじっか共同体(社内とか担当内とかね)に属しているからこそ、この「どうでもいい」瞬間に出会う回数も多くなっていることは否めない。と同時に、本当にどうでもいいのかについてあまり考えてないという場合や、当事者意識、帰属意識がないというそもそもの問題があったり。
で、議論が始まるたびに思うんですが、サイレントマジョリティ云々を言う前に、共同体メンバに、この「当事者意識」と「帰属意識」を持ってもらわないことには、議論が集結しても何か不足すると思うんですね。結果的に、不信感が積もったり、決定事項だっつーのに「やっぱりやってらんね」感が抜けなかったりするのはこのせいじゃないかと。
同時に、一般には、インタネ上の共同体への帰属なんてのは実生活と直結した他の帰属意識と比べるとまったく小さいのではないかと推察もできるかと。だからインタネ上の議論は避けられがちだし、どうでもいいと思えてしまう。(もちろん、極端にインタネ上の共同体に帰属したがる人もいる。これは別の話だが)
インタネ上なり、リアル共同体なりで、俺意見を通したいぜウッハー! な状態にある人は、大概の参加者は「よくわかんないからどうでもいい。議論ウザい」状態であることを認識することと、そんな彼らをどうにか動機づけることが最初にやることなんじゃないか、などと思った次第。
サイレントマジョリティの声を集計しまーす! なんつって、単純なYES, NO選択肢を集計するとかは止めていただきたいところ。