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01/20/2004: "相対化心理"
music: USODARAKE / ZAZEN BOYS
自分用備忘録的なひとこと:
ここんとこずーっとユースカルチャーと相対化について、特段何かを読むようなことはせず、漫然と考えてたのです。といっても、若者文化と相対化、というほど大きなスコープではなく、主として自分の問題、「2ch好き系と相対化」「サブカルチャー好きと相対化」、言い換えればネット者と相対化、ですが。
相対化にもいろいろレベルはありますが、ここでは、「○○なんて絶対じゃないだろ? 例外もあるだろ? 正しそうなツラすんな!」と、例外があることを前提に、本質的な議論を避け、既存の価値を否定して回る系のアクションだとしましょう。まあ、自分には思い当たる訳です。そうしてるとラクだから。
んで、ここでは相対化の個々の例について是非を問うことはしません。フジテレビは害悪だ? Don't believe the hype? これも一つの相対化でしょうが、発言者によって問題の重みが異なるので、個々の是非は問えない訳です。その代わり、なんで相対化したかったのかを掘り下げてみようかと。
相対化する前は、自分と「社会的に絶対とされているモノサシ」が対峙してる状態と言えるでしょう。あれがカッチョいい、ああするのが行儀がよい、これがイケてる、こうするのが賢い…。で、仮にこのモノサシに反する状態にいる自分は、要するに社会的に「望ましくない/間違ってる」状態であるのに、それを受け入れられないという状態なのだ。なので相対化して、(そんな、連中の価値なんて無価値だね!)と納得する。でもその相対化が思いこみでないことを体感してたい、だから2chを頼る、先人達の相対化の産物であるサブカルに走る。相対化された世界においては、望ましくなかった/間違ってた自分が「間違いない」に変移するものだから都合がいいのだ。
でも、相対化を貫く過程では、全てが「間違いない」けど「正解でもない」ことも知ってるから、次の間違いじゃないところをみっけたい、新たな相対化対象を探したい、が、行き着くところはどんづまりで自己卑下するしかない。うわー、これは救いがない状態じゃないか。
そう考えてると実に自己否定めいた心理にもなりましたが、最近は「社会通念的にだいたい正しい」ことは「社会通念的にだいたい有用である」ことなのだ、と折り合いをつけることが、ちっとは社会的に役立つことなのだとわかったため、そうなるよう訓練してる、という状態であります。